キングダムと春秋戦国時代の歴史辞典

趙奢の活躍を紹介したいと思います。
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趙奢と平原君

趙奢なのですが、最初は、田部の吏という役職の役人でした。

官位で言えばそんなに高くなかったのでしょう。
ある時、趙の公子である平原君の家で税金を払わない問題が出ました。趙奢は法律に則り厳しく取り締まり、さらに平原君の家臣9人を殺害してしまいます。

怒った平原君は、趙奢を呼び出したのですが、趙奢が正論を言い、それをもっともだと思った事で自分の兄である趙の恵文王に推挙しました。

その結果として、趙奢は国の税務長官になったわけです。
平原君の頁にも書きましたが、平原君が推挙の達人だったから世に出てきた人とも言えるわけです。

閼与の戦いで将軍に任命される

趙の都である邯鄲に閼与が秦軍に攻められているという報告が入ります。

ここで趙の宮廷では助けに行くべきか、助けに行かないべきか議論されたわけです。
キングダムでも名将と呼ばれている廉頗もこの時は、閼与への道は険しく救援は難しいと言っています。

さらに、楽毅の一族でもある楽乗も救援は難しいと言ったとされています。軍事の専門家である人たちは、皆、口を揃えて閼与への救援は難しいと言うのです。
そこで、何を思ったのか趙の君主である恵文王は税務長官である趙奢にも意見を求めました。この時に、趙奢は「閼与への道は遠くて険狭です。

例えてみれば、二匹のネズミが穴の中で戦うようなもの、将が勇猛な方が勝ちましょう」と言いました。軍事の専門家である廉頗などが無理と言っているのに税務長官が勝てると言うのです。

ここで恵文王は決断します。これにより趙奢は将軍に任命されるわけです。税務長官が突如、将軍になってしまったわけです。
ちなみに、閼与の戦いでは秦の将軍である胡傷と戦うわけです。胡傷はキングダムで言う所の秦の六大将軍と言われたうちの一人に数えられています。

一カ月以上動かず

趙奢は、将軍に任命されて邯鄲を出発したわけですが、30里進んだところで軍を停止させて守りを固めるように指示します。

さらに、自分の部下に対して「自分に対して意見をしたものは、死刑にする」と宣告しています。その時、秦軍の胡傷の方では派手に銅鑼を鳴らしたりして武安の邑の近くで鬨の声をあげさせたりします。ここで趙奢の部下の一人は「急ぎ武安の邑を救うべきです」と進言しました。しかし、趙奢は進言した部下の首を即効で切り落とし益々守りを固めていきました。

この趙奢の行動ですが、部下に命令を聞かせるためのパフォーマンスであったと考えるべきでしょう。この時の、趙奢は税務長官が急遽、将軍になってしまったのであり威厳がなく、兵士の側としても心配があったに違いません。
兵士に心の乱れがあったわけです。そこで、趙奢は「自分に対して意見をしたものは、死刑にする」と宣告したのでしょう。

その後、趙奢は28日間動かなかったとされています。そして、胡傷の方も趙奢の行動が気になり間諜を出し様子を探ります。間諜が自軍に入った事を趙奢は確認すると、間諜に対して「捕らえるな。篤くもてなして帰せ」と命じています。この時点では、趙奢の意図が分かっている人はいないはずで、間諜は胡傷に趙軍は動かないと報告したでしょう。

これを聞いた胡傷は趙奢の軍が閼与救援ではなく趙都である邯鄲の防衛軍だと判断しました。これにより胡傷の方は趙の趙奢の軍を迎え撃つのではなく、閼与の方に全軍を移動させます

。一気に閼与を攻め立てて抜こうと考えたのでしょう。しかし、これと同時に動かないはずの趙奢の軍が動き閼与に向かって移動します。もちろん、迎撃態勢だった胡傷の軍はいなくなりすんなりと閼与付近まで到着しています


。二日と一夜で閼与まで50里と言うところまで全軍を移動させました。強行軍で移動させたのでしょう。そして、布陣を完成させて塁を築き守りを固めました。

この時点での趙奢の陣形は自軍が大軍だと思わせないように主力を隠した布陣だったようです。これを見た、胡傷の方は趙軍が全軍で移動したのではなく、兵士数は少ない偵察隊と考えました。
そこで、気軽に趙軍に攻撃命令を出したようです。秦軍は、趙軍が少数だと思い意気盛んに攻め込んできます。

許歴が趙奢に意見をする

秦軍が攻め込んでくるのを見た時に、軍士の一人である許歴と言う人物が趙奢に意見をしたいと申し出ます。

それによると、「秦軍は、趙軍が残らず閼与付近まで来ていると思っていないので意気盛んに攻めてきましょう。将軍におかれましては、軍を分散させずに応戦しなければ必ず敗れます」このように許歴は堂々と言ったとされています。つまり、趙奢の今の布陣であれば主力を隠している事が逆効果になっていると言ったわけです。これに対して、趙奢は「さきの命令を守ってもらおう」と言ったとされています。

許歴は「ふ質の誅に行かせてもらいたい」と答えたと言います。
つまり、首切り台に送り首を斬れと言ったわけです。これに対して趙奢は「後の沙汰と待て」と言い許歴を止めました。そして、許歴の言ったように陣形を変更します。この自分の策が否定されても臨機応変に対応できるところが趙奢の凄いところでもあるのでしょう。

その後、秦軍と戦闘が始まるわけですが、重厚な陣を構えた趙奢の軍を崩すことが出来ません。その後、許歴がまたもや趙奢に進言をします。「北山を取った者が勝ち、取れなかった者が敗れます」。これを聞いた、趙奢は「その通りだ」と頷き、すぐに兵士1万人を北山奪取に向けて移動させました。胡傷の方も北山の重要性に気が付いたのですが、一歩遅く趙軍が先に占拠してしまったわけです。
戦の場合は高い場所に布陣した方が戦闘が起った場合は圧倒的に有利とされています。それにより趙軍の勝利を決定づけました。これにより勝ちが無くなったと判断して胡傷は退却するわけですが、趙奢に追撃されるわけです。

これにより閼与の包囲も解けて見事に閼与の戦いで勝利を収めました。この戦いにより趙奢は馬服君に任命され廉頗・藺相如と同じ位になりました。

これによりキングダムで言う趙国の三大天が誕生したわけです。尚、戦術眼が高い許歴も国尉に任命されます。

閼与の戦いの影のMVPがいる?

閼与の戦いの影のMVPと言えるのは、趙の恵文王ではないでしょうか?趙奢は出陣の前に2匹のネズミが穴の中で戦うようなもの。将が勇猛な方が勝つ」と言いました。

しかし、実際の趙奢の戦い方は、勇敢に戦うのではなく軍をすぐに停止させて、胡傷の軍が道を開けてくれるのを待つと言う戦略です。つまり、宮廷で発言したのとは別の方法を使っているわけです。

さらに、30日間に渡って軍を停止させたわけですが、それに対して恵文王が文句を言ったと言う話もありません。

孫子の兵法書にも書いてあるのですが、現場を分かっていない君主が下手に口を出すと勝てる戦いも勝てなくなる場合もあるのです。例えば、長平の戦いにおいても、廉頗は守りを固めて動こうとしませんでした。

しかし、趙の孝成王は廉頗に変えて趙活を将軍にしてしまい、その結果が40万の首を斬られての大敗です。これを考えれば、趙奢の事を最後まで信じて解任しなかった恵文王の忍耐力は見事としか言いようがありません。

それか、この頃はまだまだ藺相如が元気で趙奢について讒言したものは激怒して一括していた可能性もあります。
それを考えれば、閼与の戦いの影のMVPは趙の宮廷なのかも知れません。

趙奢と田単の話し

田単と言うのは斉の将軍です。燕の将軍である楽毅が斉に大攻勢をかけて2城を残して全て陥落させてしまいました。

しかし、楽毅が燕の恵王により解任されて趙に移り、楽毅のいなくなった燕軍を奇策を使い散々に破りました。そして、奪われた城を全て奪い返した名将です。その名将である田単が趙奢と戦について論じたと言う話があります。田単が趙奢に大軍を使い過ぎると指摘した話です。

これに対して趙奢の方は「昔と違って今は国も大きくなっている。それに応じた兵数を集めなければ十分な戦果は上げる事が出来ないからだ」と言っています。

この言葉には予想外の事が起きても戦果を挙げるためには十分な兵士が必要だとも言っているのでしょう。
田単という将軍は少数の兵士を持って大軍である燕を破った事で少数の兵士で奇略を用いて勝つタイプとも言えるわけで、趙奢の考えとは対立してしまったのでしょう。

趙奢と田単のどちらが正しいかは分かりませんが、状況に応じて戦い方は変える臨機応変と言う事は大事なのでしょう。

趙奢に見習うべき部下への接し方

閼与の戦いを見る限りでは、趙奢は部下に対して厳しかったように思えます。

自分に意見をしたものは首を斬ると宣言して実行している辺りは、そう見られても仕方がないでしょう。

しかし、将軍となってからは部下に対して、かなり気さくに接していたようです。趙奢の妻の言葉に「出陣が決まってから家の事を顧みる事は無く戦で勝つ事ばかり考えていた。王様から頂いたものは全て部下に配ってしまっていた。

友として交わるものが大変多かった」と言う言葉があります。今の日本人の多くの方が出世コースに乗ると傲慢になるように思えてなりませんが、趙奢の場合は出世すると謙虚になる人物だったようです。

それにより趙奢が指揮する軍はかなり士気が高かったのではないでしょうか?

ちょっとした事に思うかも知れませんが、上に立つ人物の大事な事を教えてくれています。

趙活の敗北を予想

趙奢の息子の名前は趙活と言います。

長平の戦いで廉頗が解任されて後任の将軍になった人物です。趙奢も戦の理論では趙活に勝つ事は出来なかったようです。これを聞いた趙奢の妻は「あなたの跡を継いで立派な将軍になってくれる」と期待したと言います。

しかし、趙奢の評価は全くの反対で「戦と言うのは生死の関わったものなのに、趙活は無造作に言っている趙軍を敗北させるのであれば趙活であろう」と予言しています。


さらに、自分の妻に対しても趙活が将軍にならないようにするように言っています。実際に、趙の孝成王が范雎の計略に乗ってしまい廉頗と趙活を交代させようとするわけです。この時に、趙活の母親は孝成王に対して趙活を将軍にしてはならないと止めるわけです。


止めた理由は「趙活は将軍に任命されて王様から金品を頂くと全部自分の物にしてしまい部下に分け与える事をしません。さらに、王様から貰ったお金で土地の物色ばかりをしている。部下たちも趙活をまともに見れる者もいない。夫である趙奢と心掛けが違い過ぎる」と孝成王に述べました。


それでも、孝成王は趙活を将軍にすると言ったのですが、母親は「もし趙活が失敗しても罪は一族には問わない事を約束してください」と言うと、孝成王は「分かった」と言い、実際に長平の戦いで趙活が敗れても趙奢の一族には罪は問わなかったと言います。

尚、趙活を将軍にするのに反対したのは藺相如も同じです。藺相如もの言うのは、趙活は父親が残した兵法書を丸暗記しているだけだから臨機応変に対応できないと言い趙活が将軍になるのに反対しました。

しかし、昔の藺相如もであれば孝成王も一括されていたかも知れませんが、この時は重病だったようで引き下がってしまったようです。

結局、趙活は白起に敗れて趙軍40万を失う大敗北してしまいます。

しかし、孝成王の方はその後は、平原君の活躍などもありますが、趙の首都である邯鄲を秦軍から守り抜いています。

孝成王も長平の戦いや邯鄲籠城戦を通して成長したように思えます。

恵文王の時代が趙の黄金期

趙の中で黄金期と言えば中山を滅ぼすなど領土を大きく拡張させた武霊王の時代を思い浮かべるかも知れません。

実際に武霊王は故服騎射なども行い積極的に領土を広げました。英雄的な王様で秦に対しても有利に事を進めていたように思います。しかし、後継者争いで失敗をして世を去っています。


その後を継いだのが恵文王なのですが、領土は武霊王の頃に比べると縮小してしまっています。しかし、人材で言えば恵文王の頃が趙のピークだったような気がします。


趙の三大天と言われた廉頗・藺相如・趙奢もいますし、さらに燕の楽毅は恵文王の所に亡命して燕と斉の国境地帯に封じて睨みを聞かせました。

さらに斉の名将である田単が趙の宰相になったと言う話もあるのです。どういういきさつで宰相になったのかは分かりませんが、田単が趙の宰相になったと言う記述があるのです。

廉頗・藺相如・趙奢・楽毅・田単のメンツは凄いと思います。もっと恵文王が武闘派な王様であれば国土を大きく伸ばした可能性もあります。恵文王と言うのは非常に忍耐強く名将が集まりやすい人徳を兼ね備えていた可能性も高いと思いました。

しかし、恵文王は内政を重視した事で領土拡張とはいかなかったようです。


話を変えますが、趙奢がいつ亡くなったかは記述がないのではっきりとしません。しかし、長平の戦い(趙の孝成王の3年)の時には既に亡くなっていた事を考えると、恵文王の死の前後に亡くなったと考えるのが普通でしょう。

尚、趙奢の子孫についてですが、馬服君の馬を性にして続いたようです。後漢の初期に光武帝劉秀の元で活躍した馬援は趙奢の子孫と言われていますし、三国志の五虎将に数えられる馬超も趙奢の子孫と言われています。


後漢の二代皇帝である明帝の時代で皇后が出た事で、後漢の時代においては趙奢の子孫である馬氏は名門扱いされていたようです。

道

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