キングダムと春秋戦国時代の歴史辞典

戦国四君の一人である平原君の失敗と挽回の話を記載しておきます。
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平原君が戦国四君最弱なのか?

平原君はキングダムにはリアルで登場しそうにない人物です。

しかし、趙と言う国を語る上では欠かせない人物だと言えるでしょう。
平原君は戦国四君に数えられます。戦国四君と言うのは食客3000人とも言われていて、多くの食客を養っていた事で有名です。戦国四君のメンツを言えば斉の孟嘗君、魏の信陵君、楚の春申君、趙の平原君を指します。

この中で、平原君が最弱だと評価される場合が多いようです。

その理由なのですが、孟嘗君が平原君の治める地域の街を一つ壊滅させてしまった事件がありますし、信陵君には自らの失言に対して冠と外して詫びると言う行為もあります。春申君には、食客の待遇の差で負けてしまったと言う話があるからでしょう。さらに、戦国時代最大の戦いは長平の戦いと言われていますが、平原君の意見を趙王が採用したから戦いが始まってしまった経緯があります。

そのため、平原君は失敗の多い人物だとも言えるわけです。

しかし、平原君って賢いとは思わないかも知れませんが自分の悪い部分を反省すると言う長所があったように思えるのです。

美妾よりも士を好む

平原君の家には高台があり、そこから周りの家の民家を見る事が出来ました。

その民家に脚の不自由な男がいて、びっこを引きながら水を汲んでいました。
それを見た平原君の美妾がその男の事を大笑いして馬鹿にしました。その時に、足の不自由な男は平原君の所に行き、大笑いした美妾の首を頂きたいと要請しました。
その時の平原君は「分かった」と言ったのですが、「あの男は笑われた事を根に持ち執念深すぎる」と言い美妾を殺そうとしませんでした。

しかし、食客の数がどんどん減って行ってしまいます。そこで、残っている食客に理由を確認すると「平原君が美妾を殺さなかった事で、平原君が士よりも美妾を好む事が分かった」との事。

それで平原君は美妾の首を斬り足の悪い男の所に「遅くなって済まなかったと」詫びを入れたそうです。その事から、食客たちも平原君が士を好む事が分かって徐々に戻って来たそうです。

ここまでが史記に書かれている事ですが、もしかして、平原君の美妾と言うのはかなり調子に乗っていて周りの人からかなり嫌われていたのではないでしょうか?

さらに、足の不自由な男に首を頂だきたいと言われていも、首を斬られなかった事でさらに調子に乗ってしまった可能性もあります。

史記には差別的な事をした結果、最後は無残な死に方をする人もいるわけですが、平原君がそういう風にならなかったのは、態度を改めたからだと思います。

三大天趙奢を推挙する

キングダムの中で趙国三大天と言う記述があります。

趙国において活躍した3人を言うのですが、初期の三大天は「廉頗・藺相如・趙奢」です。このうち趙奢を推挙したのは意外にも平原君なのです。

これについては史記の中の廉頗・藺相如列伝の中に書かれています。平原君は兄である恵文王から領土をもらっているわけですが、超国の税務官である趙奢が平原君の家臣を9人処刑してしまいます。もちろん、家臣が平原君の威を頼んで税金を誤魔化そうとしたからだと言われています。

ここで、平原君は激怒して趙奢を呼び寄せるわけです。趙奢は「平原君の家臣は税金を誤魔化し私腹を肥やしている事。趙国の法律に反している事」を述べたとされています。
さらに、趙国の法律を守らないと趙国は弱体化する事を平原君に臆する事もなく言いました。平原君と言う人は怒っていても耳は冷静だったようで趙奢を罪に問う事はしませんでした。さらに、兄である恵文王に趙奢を推挙したわけです。

ここで趙奢は税務長官に任命されます。一気にステップアップしたわけです。これにより税金を上手に課税した結果として国庫は富んだとされています。

つまり、趙奢は平原君がいなければ、活躍する事も出来なかったでしょう。
今、キングダムで趙国三大天の一人として趙奢は数えられていますが、平原君がいなければ、そういう事もなかったでしょう。下級税務官で終わっていた可能性も高いです。

長平の戦いの原因を作ってしまう

趙の孝成王の時代に戦国最大の長平の戦いが起きるわけです。

秦が韓を攻めて韓の北部と南部が切り離されてしまい飛び地になってしまいました。韓の上部の土地を秦に渡すのではなく、趙に送ると言う策を韓の方では立てました。

つまり、本来なら韓の上部の地域(上党)は秦の土地になるはずなのですが、趙がもらい受ける事で、秦の攻撃の標的を韓から趙に移そうと言う策です。韓の災いを趙に転換させようとする策です。この時に、趙の方でも上党の土地をもらい受けるか、もらい受けないか議論がされました。この時に、上党の地をもらい受ける派の筆頭が平原君でした。

ただで土地が入るのは美味しいと言う事で、上党をもらい受けると言うのです。もちろん、平陽君(孝成王の弟)などの反対意見もあったのですが、平原君の意見を採用して上党の地は趙の土地となり趙の名将である廉頗が土地の受け取りに行きました。

ここにおいて秦が趙に攻め込み長平の戦いが始まるわけです。ここで軍の大将が廉頗から趙活に変わるなどの問題があるわけですが、ここで趙国三大天の一人である藺相如は重病でしたが、宮廷まで行き趙の孝成王に廉頗と趙活を変えるのは反対だと力説しました。
しかし、ここで平原君が廉頗と趙活の交代に反対したと言う話はありません。

つまり、賛成した可能性もあるわけです。
しかし、この廉頗と趙活が長平の戦いで交代した事により趙は40万の兵士を失うという大敗北を決してしまうわけです。

戦い自体に平原君は関わってはいませんが、上党の地をもらい受けるように進言してしまった責任はあるわけです。
もちろん、その後、秦は趙の都である邯鄲を囲みます。

楚と魏の援軍を呼び寄せる

長平の戦いで敗れた趙は秦に攻められて邯鄲で籠城戦を行うわけです。
この時に、楚と魏の援軍を呼び寄せるのですが、ここでも平原君が活躍しています。
平原君は魏の平原君の姉を妻に迎えていました。

信陵君を見込んで信陵君の姉を妻にしたわけです。信陵君に魏王を説いて援軍をお願いしたわけです。しかし、魏王は援軍を出しませんでした。しかし、ここでは色々とあったのですが、信陵君が魏の将軍をペテンにかけて軍権を奪い趙の援軍に駆けつけると言う荒業をやってのけています。

さらに、楚に行き援軍要請に行きました。ここで平原君は知勇兼備の20名の食客を連れて楚に救援を求めることにしたんです。

ここで、普段パッとしない食客である毛遂が自薦しました。しかし、平原君も1度は断ったのですが、毛遂がしつこく自薦するため連れて行く事にしました。

ここで詳しくは書きませんが、嚢中の錐の語源となった話になるわけです。
平原君が楚王に対して、趙の援軍を請うのですが、秦を恐れている楚王はいい返事をしません。そのまま半日が経ってしまったと言われています。

ここで毛遂が突然、楚王に近づいてい話を始めます。楚王は無礼だと一括するわけですが、毛遂はひるまずに楚王に対して、逆に一括して無理やり趙と楚の合従(同盟)を認めさせました。
それで、平原君は楚との同盟を認めさせて無事に趙に帰国することが出来たわけです。趙に帰った平原君は毛遂を上客として優遇する事で功労を報いたとされています。

毛遂も平原君がいなかったら活躍の場は与えらえなかった可能性が高いです。

李同の進言で全財産を投げうって国を救う

趙と魏の援軍の約束を取り付けたわけですが、援軍に来るまでの間、趙は持ちこたえなければいけないわけです。

しかし、この頃の趙の民衆は木を武器にしたりして戦ったとか、自分の子供と他人の子供を交換して殺してしまい人肉を食料にしていたと言う記述があります。ここまで趙の民衆は飢えていたわけです。
しかし、平原君などの貴族は、それにも関わらず優雅な生活を送っていたようです。しかし、兵士の一人である李同にその事を指摘されると平原君は全財産を投げうって民衆に配ってしまいました。平原君の屋敷が空になってしまったと言う記述まであります。

この時の状況は他国まで聞こえていたのか、秦の昭王が白起に出陣依頼をした時に白起は「趙は平原君が全財産を捨てて固く守っているから隙が無く邯鄲を抜く事は出来ない」と言ったとされています。
その後、李同が決死隊を募るように平原君に進言します。

これを採用して決死隊を募ります。3000人の決死隊が集まり李同が指揮をする事になりました。決死隊の3度の突撃により秦軍は後退する事になります。

そして、3度の突撃で李同は戦死してしまうわけです。しかし、この時に楚と魏の援軍が到着して秦軍の後方から襲い掛かり秦軍は壊滅したわけです。李同は戦死したわけですが、李同の父親を李候に封じて手柄に報いたとされています。この李同は普通の兵士のわけで身分は決して高いわけではありません。
しかし、平原君はそういう意見にはしっかりと耳を傾けるわけです。

もし、ここで平原君と李同が趙国にいなかったら趙は滅亡していた可能性もあります。

よって、平原君は趙を救ったとも言えるわけです。

平原君の評価

最後に平原君の評価ですが、低く見られがちだと思います。
しかし、平原君は失敗もするけど挽回をするようなタイプではあると思いました。司馬遷が平原君・虞卿列伝の中で宰相の席を3度去り、宰相の席に3度戻ったとありますが、これが平原君の生き方をよく示していると言えるでしょう。

ちなみに、戦国四君の死に方なのですが、孟嘗君は寿命で死んだようです。
しかし、息子たちが跡目を争った隙に、魏と斉に滅ぼされたと言う記述があります。

孟嘗君は、自分の死後の後継者争いに失敗したと言えるでしょう。

魏の信陵君ですが、魏王に疑われてアル中になって死んでしまいます。

さらに、春申君の場合は年老いて権力欲を見せたために李園によって暗殺されてしまうわけです。平原君の最後と言えば、どうやら寿命で亡くなったようです。

病気だったとか、そういう記述はありませんが、紀元前251年に死去したようです。
ちなみに、子孫が後を継いだようですが、趙国の滅亡と共に滅んだとされています。

これを見ると、平原君の子孫が一番まともな感じがします。傲慢な態度を取ったり無能に見えるところもあるかも知れませんが、人に意見にしっかりと耳を傾ける立派な人物だと言えるでしょう。

史記の中では、商鞅などのように人の意見に耳を傾けなかったために、むごい死に方をした人物がいるわけですが、平原君が天寿を全うしたのは、人の意見をよく聞くからでしょう。
どことなく人間臭さが感じるところが平原君の魅力なのかも知れません。

道

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